キリスト教入門 

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Q1 この時代に、神を信じることが必要でしょうか。

A1 必要です。信じることなしに、人は生きていくことができないからです。
 ある人は、学歴を信じています。別の人は、健康や幸せな家庭を、この世での地位や名誉などを、生きていく上での頼りとしています。もちろん、お金を信じている人も、大勢いることでしょう。どの人にも、「わたしは〜を信じる」というものがあります。「いや、わたしは何も信じない」と言う人は、自分が何かに頼っていることに気がついていないだけなのです。
 だから、ほんとうに信じるに値するものがあるかどうか、ということが重要です。ほとんどのものは、失格です。永遠に残りはしないからです。「火で精錬されながらも朽ち」(ペトロの手紙一1章7節)ないもの、つまり「罪と死に対する勝利者」(コリントの信徒への手紙一15章57節)だけが、まことに信じるに値するお方ではないでしょうか。
 まことの神を知り、信じてこそ、わたしたちは不安から解放され、活き活きと生きることができるでしょう。
 「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」(ヨハネの手紙一5章4−5節)


Q2 神を信じるのは、弱い人のすることで、意志の強い、まじめな人には、必要ないのではありませんか。

A2 どんな人でも、神を信じることは必要です。
 たしかに病気や障害、老いなどを負う人々のなかに、深い信仰をもった人がいることは、事実です。しかし弱くない人間などいません。「自分はまじめで強い」と思う人は、自分を隠し、偽っているのにすぎません。人間をあまく見ているだけです。
 聖書は、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章18節)と命じています。この戒めを真剣に考えれば、自分の罪深さは、あきらかです。そんなことは、できていないからです。むしろ、まじめになればなるほど、自分の罪と弱さを知らずにはいられなくなることでしょう。
 神を信じる者とは、自分が弱いことを知っている人のことです。それを隠さずに、神の御前で告白し、悔い改めます。自分の本当の姿を知っている人のことです。けれども同時に、その弱い自分をゆるしてくださる神の愛を知っています。だから、この神の愛に押し出されて、あきらめずに、粘り強く生きていくことができます。
 「なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(コリントの信徒への手紙二12章10節)



Q3 山に登る道が多くあっても行き着く先は同じ頂上であるように、どの宗教を信じても結局は同じではないですか。

A3 まったく違います。たしかに日本人は、この考え方で信仰の違いをあいまいにしてきました。その結果、諸宗教は国家神道にからめ取られ、戦争を防ぐことができず、悲惨な結末を迎えたのでした。
 信仰には二つの面があります。信じる人の姿勢や心の状態という面では、なるほどどの宗教も共通な部分があるかもしれません。けれども人間ばかりを見て、「信じる相手はどうでもよい、いわしの頭でもよい」というのは暴論です。結婚するときに、愛するという自分の気持ちが大事で相手はだれでもよいとは思わないでしょう。信仰も同じです。まことの神を知ってこそ、豊かな信仰の実が生まれていきます。
 「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(ガラテヤ5:22) これらが、イエス・キリストを信じる信仰の結果です。まことの主がいましてこそ結ぶ実なのです。



Q4 日本には先祖伝来の仏教や神道があるのに、どうして外国の宗教であるキリスト教を信じるのでしょうか。

A4 神が、あらゆる人を救うまことの救い主であるイエス・キリストを与えてくださったからです。
 仏教はインドに発生し、渡来しました。そこに真理を感じて日本人が受け入れた外国の宗教です。神道にも東南アジア起源の神々が多くあると言われています。むしろ良いもの、真実なものを積極的に取り入れてきたのが、私たちの先祖たちでした。
 キリスト教がヨーロッパやアメリカの宗教だと思うのは誤解です。アジアに生まれ、世界中に広まりました。それは、一つの民族信仰に留まらない、広く豊かな内容があったからです。いや、キリストそのお方こそが、すべての人を罪のもとから解き放つ、まことの救い主でいらっしゃるからです。
 「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3:28) 国際化の必要が叫ばれる現代、日本人が狭い島国根性を捨てて、魂を、まことの救い主に向かって大きく開くべき時が来ています。



Q5 一つの宗教に凝り固まって狭くなるよりも、どの神をもおがんで各宗教の良いところを取り入れるべきではないでしょうか。

A5 信仰とは、生ける神との人格的な交わりです。二股かけたり、あちらこちらと渡り歩くのでは、本気で信じているとは言えないでしょう。習い事でも、一つの流派に徹してこそ、奥の広さを知るようになります。まして大事な信仰のことです。唯一の神を信じ、従い抜かなければ、信じる恵みは得られません。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)
 それは決して偏狭になるということではありません。信仰を持ったからといって、他の宗教の悪口を言う必要はありません。むしろまことの神の御前にひれ伏す者は、謙遜にされます。「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソ2:8) 神から賜わった信仰に忠実に歩むのが、キリスト者の道にほかなりません。



Q6 神といっても、結局は人間の考え出したものではないでしょうか。

A6 聖書はそれを偶像と呼んでいます。自分の好みや欲求にこたえてくれる神を作り出すのです。けれども人間が作ったものをおがみ、それに縛られている限り、自由はありません。この世の名声や学歴、お金などは、すべて人間の産み出したものです。なのにそれらを神とし、支配されている人の多いのが現実です。自己疎外とも呼ばれます。人間が作った神などに人間を救えるはずはありません(イザヤ44:9以下を参照)。
 聖書の神は、人間の都合やこのみで作り出されたものではありません。反対に人間を造り、越え、人間に左右されることなく義と愛とをもって人に対され、私たちが自分中心にではなく、神の御心に従って生きることをお求めになるお方です。主である神に従ってこそ、まことの自由に生きることができます。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。」(ガラテヤ5:1)



Q7 なぜ、神は唯一であると言われるのですか。

A7 本物は一つだけだからです。
 日本には八百万もの神々があると言われます。にぎやかですが、逆に言うと、「これだ」という本物がないということです。ギリシアにも多くの神々があり、その中でもゼウスが最高神とあがめられました。けれども優劣の比較ができるということは、他を絶する絶対の神を知らない証拠です。
 聖書の神は第一に、神々の中で最高の神ではありません。このお方のほかに神とお呼びできるものはありません。「わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない」(イザヤ43:1) 唯一の神とは、この世のどんなものをも越えた絶対のお方だということです。
 第二に、だからといって近寄りがたい恐ろしい神というのでなく、人間と一対一の真剣な交わりをお求めになるお方です。一人の夫と一人の妻であってこそ、夫婦の愛と信頼が成り立ちます。そのように、唯一の神に結ばれ、従ってこそ、まことの信仰と言えるでしょう。



Q8 神が天地の創造者であるということは、何を意味しますか。

A8 神は、この世界が存在する前からおられ、人間と天地自然を造られました。
 このことは第一に、この世にあるすべてのものが神に祝福され、良いものとして造られたことを意味します。「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはない」(テモテ一4:4) だから信仰者は世界を愛します。
 第二は、神だけが創造主でいまし、ほかのどんな被造物にもまさっておられるということです。両者の間には越えることのできない違いがあります。神だけが、造られたものすべてに対して絶対の主権をお持ちです。ですから、たとえどんなに力あるものであっても、被造物を神とすることはできません。
 第三は、神が交わりを求めたもうことを意味しています。創造の目的は人間との交わりです。人が神を喜んであがめ、従うことができるように、神は天地自然をお造りになりました。だから私たちには、この世界を正しく治め、守り、その造り主なる神をほめたたえる責任があるのです。



Q9 造り主である神は、人間に対して、守るべきどのような戒めを与えておられますか。

A9 主イエスが、旧約書の律法全体を二つにまとめておられます(マタイ23:37-40)。
 第一は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(申命記6:5)です。また第二は、「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19:18)です。これが、神がわたしたちに求めておられることです。
 けれども人間は、この律法を完全に守ることができません。それは、人間がもともと自分中心で、神と人とに逆らう性質があるからです。聖書はこれを罪と呼び、「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」(ローマ3:9)と指摘しています。だれもが、神にそむく、自分中心の罪人です。
 罪はわたしたちの奥深くにまで入り込み、支配してきます。とても人間の努力や修行で克服できるものではありません。この罪からわたしたちを解放し、自由にするものこそ、神の救いにほかなりません。



Q10 神が世界と人間との造り主であるのなら、なぜ人間を、罪を犯すことができないように造らなかったのでしょうか。

A10 神が人間を愛し、重んじて、自由な者としてお造りになったからです。
 神は世界と人間のすべてを造られた主でいらっしゃいます。だから一切を、み心のままにお造りになりました。もちろん人間を、罪を犯すことができないように造ることだってできたでしょう。けれども神の願いは、人間が自分の意志で自由に喜んで主をあがめ、主に従ってくることでした。
 自分の方しか向けないようにできている人から愛されても、ちっとも嬉しくはないでしょう。だれの方にも向くことができるのに、あえてだれかと向かい合うのが愛です。神は人間を、そのように自由な者としてお造りになりました。人が自ら進んで主に従うことを求めておられます。だから人間に、神にそむくこともできる自由を与えられました。
 残念ですが、人間はこの自由を反対に使い、罪の奴隷となってしまいました。けれども神は、キリストによって罪から解放してくださいました。だからこのように言われています。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)



Q11 罪とは何ですか。

A11 人間を、その造り主である神から遠ざけ、背かせる力のことです。
 それは第一に、人間が犯したものですから、人間自身に責任があります。旧約の創世記3章の物語によれば、最初の人間であるアダムとエバは、神の言いつけに背いて、食べてはならない木の実を食べてしまいました。問題は、自分の判断にしたがい、神の言葉に従わなかったところにあります。英語では罪をsinと書きますが、「罪とは、真中に我(I)があること」なのです。罪には、どこまでも自分中心の臭いが染み付いています。神から離れようとする罪の責任は、人間自身が負わなければなりません。
 けれども第二に、いったん犯された罪は一人歩きし、人間を支配します。それは、お金が人間の作ったものでありながら、人間を支配するのと同じです。そこに、「わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:14)という嘆きが生まれます。人間の力で罪の問題を解決することはできないのです。
 したがって、人間を超えた神であり、また同時に人間であるお方によらなければ、罪の克服はありえないのです。



Q12 神は人間の罪をどのように裁かれますか。

A12 神は義にし(正しく)て聖なるお方ですから、人間の罪を見過ごすことはなさいません。必ず罰せられます。
 唯一の神を知らない世界では、人間の感情で法を動かすことが美徳とされます(大岡さばき)。けれども人間の罪は、神に対して犯されたものですから、それを放置したり、大目に見ることは、神の正義と清さを否定することになります。だから「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」(申命記27:26)と言われています。聖書の義と法とは厳正なのです。
 けれども神は、義であるとともに愛でいますお方です。人間に対する愛をもって、ご自分の義を貫かれます。それが、イエス・キリストの十字架でした。罪は、断固として罰せられなければなりません。けれども神は、罪ののろいを御子に、つまりご自身に負わせ、私たちを赦して、罪のもとから救い出してくださいました。「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいから贖い出してくださった」(ガラテヤ3:13)とあるとおりです。
 神の義と愛の交わるところ、それが主イエスの十字架にほかなりません。



Q13 洗礼を受けて信者になったら、罪を犯さなくなるのでしょうか。

A13 そういうわけではありません。罪の力はとても強いからです。
 「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)とは、わたしたちの嘆きにほかなりません。宗教改革者のマルチン・ルターも、こう語っています。「われらの主にして教師なるイエス・キリストが、悔い改めよと言われた時には、彼を信じる者の一生が、絶えることのない悔い改めの連続であることを言おうとされたのである」(「95か条の提題」第1条)。
 信仰者の生活は、絶えざる悔い改めです。洗礼を受けた者は、救いのゴールに入ったのではなく、道の途上にあるのです。
 けれども信じる者にとって、救いはすでに始まっています。神が罪人を救おうと決意し、御子を送って十字架にかけ、甦らせられたからには、神の救いはいやおうなしに、すでに開始されています。だから「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)と言われています。
 洗礼を受けながら罪を犯す人間の現実は、救いがまだ完成していないことを意味します。だからわたしたちは悔い改め、謙遜にされます。しかし救いはすでにキリストによって始まっています。その御手が、いつも失敗ばかりしているわたしたちを、救いへと引き戻すのです。



Q14 人を罪から解き放ち、神との生きた交わりにあずからせるには、どんな救い主でなければなりませんか。

A14 それは、まことの正しい人間であると同時に、まことの神であるような救い主でなければなりません。
 第一に、まことの正しい人間でなければなりません。人間が罪を犯したのですから、人間がそれを償わなければなりません。「それでイエスは、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」(ヘブライ2:17)。それも、罪ある者では、他の人のために償うことはできません。「牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる」(レビ1:3)とあります。
 第二に、まことの神でなければなりません。人間の罪はあまりに重くて、人には負いきれません。ただ神だけがそれを負い、耐え、人間に、罪を越えた新しい生命と正しさとを与えることができるからです。「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負っていこう。わたしはあなたを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ46:4)と言っておられます。
 それは、わたしたちの主イエス・キリスト以外にありえません。



Q15 イエス・キリストという名前にはどのような意味がありますか。

A15 イエス(ヨシュア)とは、「神は救い」という意味の、ごく普通のユダヤ人の名前です。キリスト(ヘブル語ではメシア)とは、「油を注がれた者」という意味です。旧約の時代には、王や祭司、預言者として、神に特別に選ばれた者は、頭に油を注がれたのです(サムエル記上16:22)。ただし、主イエスのころには、「救い主」の意味で使われました。
 イエス・キリストという言い方は、「イエスがキリストである」という信仰告白にほかなりません。
 事実、主イエスはキリストとして、三つの職務を果たされます。第一に、しもべとして仕えることによって、すべての人間を霊的に支配なさる王でいらっしゃいます(マタイ20:25-28)。第二に、みずから十字架に付いて、人間のために父なる神に執り成しをなさる大祭司でいらっしゃいます(ヘブライ9:11-15)。第三に、神の救いと御心を宣べ伝え、教え、啓示なさる預言者でいらっしゃいます(マルコ1:14-15)。
 それがあのお名前の意味なのです。



Q16 「われは父なる神を信ず」とは、どんな内容ですか。

A16 私たち人間が、全能の造り主にして御子イエス・キリストの父でいます神を、父と呼ぶことがゆるされている、ということを意味しています。
 もともと人間は神に造られたものです。しかも罪を犯して、遠く御許から離れ去ってしまいました。ただ御子お一人だけにしか、神を父と呼ぶ資格はありません。だから旧約で、民が神を父と呼ぶところはほとんどありません。
 けれども主イエスは、「天にまします我らの父よ」と祈るように教えてくださいました(マタイ6:9)。それだけでなく、自ら罪を引き受けて十字架にかかり、人間をゆるして兄弟と呼ばれました(ヘブライ2:11)。だから神は私たちに「アバ、父よ」と呼ぶ霊を送り、神の子、相続人としてくださったのです(ガラテヤ4:6−7)。
 神を父と呼べるのは、人間の当然の権利ではありません。恵みによるのです。だからそれは、使徒信条の第二の項目である「子なる神」があってこそのことなのです。



Q17 なぜキリストだけを、父なる神の独り子、主と呼ぶのですか。

A17 それは、このお方だけが天地の造られる前からいまし、万物の相続者と定められ(ヘブライ1:1-4)、「罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」(1ペトロ2:22)からです。主キリストお一人だけが、永遠の昔から、本当の意味での神の子でした。けれども神は、罪のもとに縛られていた人間を憐れみ、救うために、この神の独り子をまことの人とならせてくださいました。「それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」(ヘブライ2:11)と言われ、また「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(ガラテヤ3:26)と言われます。わたしたちは、この主の恵みによって神の子とされるのです。
 キリストは、その尊い血潮によって、わたしたちを罪と一切の悪の力から救いだし、ご自分のものとしてくださいました。それでわたしたちは、このお方を、喜びと感謝をもって「われらの主」とお呼びするのです。



Q18 イエス・キリストの十字架の死は、何を意味していますか。
A18 主の十字架の死は、人間の罪に対する神の呪いを意味しています。「木にかけられた者は皆呪われている」(ガラテヤ3:13)。キリストは十字架の木にかかって、本当なら人間が負うべき罪の裁きを代わりに担い、わたしたちを赦してくださいました。それは、御子が、呪われた者とならなければならないほど、人間の罪が深刻であることを教えています。それと同時に、そこまでして人を救おうとする神の愛がどんなに大きいかを示しています。
 わたしたちはキリストに結ばれて、罪の古い体を十字架につけられ、神に喜ばれる新しい生命に甦らされるのです(ロマ6:6)。
 使徒信条に「主は死にて葬られ、陰府に下り」とあるのは、キリストが完全に死なれたことを証しし、わたしたちを救う神のみ業がたしかに行われたことを告げています。



Q19 キリストが復活したというのは、本当ですか。

A19 本当です。そうでなければ、主キリストは、ただの過去の人にすぎません。主は、今も生きて教会をとおして働いておられるからには、復活なさったにちがいありません。「わたしの父は今もなお働いておられる。だからわたしも働くのだ」(ヨハネ5:18)。
 第一に、主のご復活は、罪と死に対する神の勝利を意味しています。罪の裁きは死です。しかしその死もまた、主は足もとに従わせられました。「死は勝利に飲み込まれた」(1コリント15:54)のです。
 第二に、それは、罪人であったわたしたちを神の義にあずからせ、永遠の命の希望に生かします。たとえどんなひどい失敗をしたとしても、新しく出直すことができます。「キリストに結ばれる人はだれでも新しく創造された者」(2コリント5:17)だからです。
 第三に、復活によってキリストの生きた体である教会が生まれました(ヨハネ2:19)。復活の主は今も生きて、教会へと招いてくださいます。お招きに応えるかどうかが、わたしたちに問われています。



Q20 キリストの再臨というのは、どういうことですか。

A20 天にいます主キリストが、世の終わりのときに再び地上に来られるということです。
 それは第一に、主がこの世界と人間のすべてを決定的に裁かれるということを意味しています。そこでこれを、「最後の審判」などと呼んだ時代もありました。「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、行ったことに応じて、報いを受けねばならない」(コリント二5:10)のです。
 しかし第二に、それは救いの完成する時です。すべて神に逆らうもの、罪と悪と死が打ち滅ぼされ、全人類が甦らされて主キリストとの交わりのなかに入れられます(テサロニケ一4:13以下)。
 その日がいつ来るのか、それは私たちには分かりません。時を定めたもうのは主なる神だけでいらっしゃるからです。けれども主イエス・キリストは、十字架に付いてまで私たちを愛し、赦してくださったお方です。悪いようになさるはずはありません。過去を思い起こしつつ、未来を待ち望んで生きるのです。
 私たちは、この主に一切をおまかせして、どんなときにも望みを失わずに歩みつづけることができます。「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のもの」(ローマ14:8)なのですから。



Q21 聖霊とは何でしょうか。

A21 聖霊は、父なる神、子なる神と同じ永遠の神であり、私たちに働きかけてキリストへと導かれます。
 それは第一に、キリストの霊です。救い主イエス・キリストを教え、私たちの目をキリストへと向けさせてくださいます。だから「背後霊」や「守護霊」など、その他どんな不思議な「霊」と言われるものとも違います。そんなものは、キリストとは無関係だからです。「どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい」(ヨハネ一4:1)。
 第二に、教会の霊でもあります。教会を造り、建て、守り、導きます。何か頭にピンとひらめいたり、気分が高揚すると、「自分は聖霊を受けた」と言い張る人がいます。けれども聖霊は興奮剤ではありません。何よりも教会に働いて教会を導くものです。「聖霊は、神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」(言行録20:28)。
 聖霊は今も、み言葉をとおして教会に働き、私たちにキリストを教え、信仰によってその恵みにあずからせ、救いの完成へといたらせるのです。



Q22 使徒信条に「われは、聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」とあるのは、どういう意味ですか。

A22 人間の集まりである教会が、キリストの血によって潔められ、立てられた主の教会であるという、私たちの信仰を言い表しています。
 「聖なる」というのは、神がご自分のために特別に選んで取っておかれた「とっておきの」という意味です。だから人間は、どう逆立ちしてみても、神に選ばれない限り、「聖なる」ものにはなれません。反対に、どんな人でも神に選ばれたなら「聖なる」ものなのです。「あなたがたは、あなたの神、主の聖なる民である」(申命7:6)。
 神は、御子を十字架にかけてまで、罪ある人間を赦し、ご自分のもの、とっておきのものにしてくださいました。「神が御子の血によってご自分のものとなさった」(言行録20:28)もの、それが教会です。だから教会は私たちのものではなく、神の教会、「公同の」教会なのです。
 それは「聖徒の交わり」です。一人では交わりは成り立ちません。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)。
 人間の集まりである教会を、このような神の教会、キリストの体だと信じてこそ、わたしたちの教会生活が始まります。



Q23 教会でよく罪の赦しと言いますが、そんなにありがたいことなのでしょうか。

A23 罪を赦されることこそ、恵みのなかの恵みです。それがなければ、神との生きた交わりに入ることはできないからです。
 旧約では「神を見た者は死ぬ」(創世記32:30)と言われています。罪に汚れた人間の目は、潔い聖なる神を見ることに耐えられません。それなのに神は、主イエスを送って私たちの罪を赦し、ご自分との親しい交わりのうちに受入れてくださいました。もはや過去の罪は清算済みなのです。帳消しになっています。「神はわたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架にかけて釘付けにして取り除いてくださいました。」(コロサイ2:13−14) 罪を赦されて、まったく新しく出直すことができるのです(エフェソ4:22−24)。
 しかしそれは、主イエスが十字架についてくださって、成し遂げられたことでした。わたしたちが赦されるために、たいへんな犠牲が支払われました。それを知れば、恵みの大きさが分かってきます。



Q24 「体の甦り」とか「永遠の生命」というのは、どういうことですか。

A24 それは、信仰によって復活の主キリストと結ばれた者に与えられる恵みです。
 永遠の生命とは、ただいつまでも生きるということではありません。罪に縛られたまま、ずっと生きなければならないとしたら、これほどの拷問はないでしょう。そうではなく、生きていても死んでも、主とともにあり、主のものとなって祝福のうちに神を永遠におめたたえる者となることです。「永遠の命とは、唯一のまことの神と、イエスを知ることです」(ヨハネ17:3)。しかも聖書は、やがてわたしたちがキリストの力によって甦らされ、栄光ある主の体のようにされると約束しています。「御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています」(ヨハネ3:2)。
 その一切は、主キリストの復活を信じることからだけ、分かります。わたしたちは、人類の一番手として復活し、今も生きておられる主のものだからこそ、この望みをいだいて地上の人生を生きぬくことができるのです。



Q25使徒信条などの基本信条を理解し、告白していれば、それで、キリスト者として十分なのでしょうか。

A25 そうではありません。たしかに使徒信条は、キリスト教の信仰の基本的な内容を十分にあらわしています。だから使徒信条を告白して洗礼を受けた人は、すべてキリスト者であり、ともに聖餐にあずかることがありえます。けれどもだからといって、これさえ知っていれば、あとはもう何もいらない、というわけではありません。
 信仰の告白は、その性質からいって、貯金がききません。夫婦の愛情の言い表しにしても、「若いころ、さんざん告白しておいたから、今はしなくてもいい」とは言えないでしょう。今、愛を言い表すことが必要です。信仰の告白もまた同じです。礼拝で主のみ前に出るとき、いつも信仰を言い表します。主にたいする告白は、日々あらたになされるべきものなのです。だから教会はいつも、その時代にふさわしい、新しい信仰告白を生みだしつづけてきました。
 いくら使徒信条がすぐれていると言っても、お題目のように唱えているだけでは、生きた信仰にはなりません。実際の教会生活のなかでこれをつねに新しく言い表し、生かしていきます。そのために、宗教改革者たちは、三つの原則をたてました。それが、宗教改革の三原理といわれるものです。つまり、聖書のみ、信仰のみ(信仰義認)、万人祭司です。これらによって、古い教理が、今の教会の生きた信仰となるのです。



Q26宗教改革の三原理の一つである「聖書のみ」というのは、どんなことですか。

A26神のみ心を示し、人を救いに導くのは聖書だけだということです。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(テモテ二4:16)とあるとおりです。
 古い中世の教会では、基準が二つありました。聖書と教会です。しかし実際には、信徒が個人的に聖書を読むと間違えやすいとされ、教会の定める読み方に従うよう求められました。結局は、一般の人々にとって聖書は遠いものでした。けれども教会もまた聖書に従います。聖書にだけ従うのです。神のみ言が、つねに教会を新しく作り変えていくのです。
 信仰のただ一つの基準は、旧約39冊と新約27冊とからなる聖書66冊です。それ以外にはありません。ありとあらゆる教理、信条、信仰告白も、聖書にもとづき、従います。ですから、どんなによく似た宗教であっても、聖書だけが基準となるのでなければ、キリストへの信仰とは言えません。
 わたしたちの国の言葉で聖書が読めるとは、なんと幸いなことでしょう。そのために、改革者たちをはじめ、多くの人々のたたかいが積み重ねられてきました。わたしたち自身、まず聖書に親しむ生活をしたいものです。

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