説 教

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   約束の旅 エレミヤ書3115-17節、マタイによる福音書章13-18
   「地の果てまでも」 詩編192-5a節、使徒言行録13-11
   


「約束の旅        
エレミヤ書3115-17節、マタイによる福音書2章13-18
  「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」
                                                       (マタイによる福音書2章14-15節)


☆闇の中にあって
 2020年は、新型ウイルス感染症の第三波のただ中でクリスマスを迎えました。私たちは、新聞やテレビのニュースで増え続ける感染者の数を知らされて日々不安感が増しています。クリスマスは、闇が覆っているような世界とは別の夢のような世界で起こったことではないのです。むしろ、クリスマスの喜びは、私たちを取り巻いている暗闇の中にあって与えられたのです。世界中で不安が増しているような現実の中に、クリスマスは訪れたのです。だからこそ私たちは、主イエスが来てくださったクリスマスの訪れを心から喜ぶことが出来るのです。

☆自分だけの世界
 ところで私たちの多くが、「自分の世界」というものを持っていると思います。それは人によって、仕事であるかも知れませんし、趣味であるかも知れません。ところが、すべてが自分だけの自分一人の世界になってしまったら、決して幸せなこととは言えません。それは、自分が神になってしまうことだからです。ヘロデ王がその典型でした。
 ヘロデはイスラエルの王ですから、自分の世界がイスラエルそのものです。したがって、自分の世界を破る者を許せませんでした。もし、「ユダヤ人の王」が誕生したということが起こったならば、自分の世界が脅かされることになるのですから、放っておくわけにはいかないのです。ヘロデは、自分の言いつけを守らなかった者がいることに、激しく怒り、怒りの矛先は、王に対して何も罪を犯していない子供たちに向けられます。「ユダヤ人の王」として生まれた可能性のある子供を皆殺しにするのです。

☆預言の成就
 ですから、主イエスが生まれた時、それは悲しみに包まれた時でした。おそらく、ベツレヘムとその一帯では、親たちの嘆きの声が、いつまでも響いていたことでしょう。マタイは、同情して慰められることさえ拒むほど、深い嘆きに包まれていたことをエレミヤ書31章に預言されていることの成就と見ています。
 しかし、ベツレヘムとその付近の地方が深い悲しみに包まれる前に、つまり、ヘロデ王の残虐な命令がくだされる前に、マリアの夫ヨセフはマリアと幼子イエスを連れてベツレヘムを離れました。それは、主の天使がヨセフの夢に現れて、幼子の命を狙っているヘロデが逃れてエジプトに行くように告げたからでした。
 命からがらベツレヘムを離れたヨセフたちが向かったのは、ナザレではなく、エジプトでした。ベツレヘムからエジプトまで約400キロですから、遠い道のりです。岩場や砂漠が続く道を生まれて間もない赤ちゃんを連れての旅ですから、命がけの旅でした。しかしそのような旅をヨセフは主の天使の言いつけにしたがって続けます。エジプトに無事たどり着いたとしても、いつヘロデ王の手下が追いかけてくるのか分かりません。したがって、心休まる日々はなかなか送れなかったのではないでしょうか。
 それでもヨセフは、神の御心に従います。ただ黙って従います。自分の世界の中にとどまり続けて感情を顕わにして、神のひとり子を亡き者にしようとするヘロデ王とは対照的です。苦しみや悩みの中でも、不安な旅路の中でも「神は我らと共にいます」という約束を信じ、神が共にいる世界に生きることが出来たヨセフには平安が与えられているのです。
 それもこれも、主なる神が預言者を通して語らせたことが実現するためであった、とマタイは語ります。神の救いの計画が、遥かな時の中で着々と実行されていることを示しています。

☆喜びの訪れ
 しかし、主イエスが生まれたことと引き替えに、たくさんの幼い命が奪われてしまうことが、神の御心なのか、私たちには、どうしても納得できません。
 そうではないのです。主イエスは、嘆き悲しみに沈むただ中に来てくださったのです。だれからの同情も受け入れることが出来ないような深い嘆き悲しみの中にある人々に、本当の慰めを与えるために主イエスは来てくださったのです。
 そしてまた、自分の世界から出ようとせずに、邪魔者を消してしまうような、人間の罪の姿が現れた世界に主イエスは来てくださったのです。人間の罪を贖うために、罪の縄目から解き放たれないでもがき苦しんでいる私たちを救うために、主イエスはこの世に来てくださったのです。
 だからクリスマスは、喜びの時なのです。真の救い主が、あなたのために、そして私のために生まれたのだから、喜びの時なのです。「神は我らと共にいます」という約束を与えられたときだから、心から喜ぶことが出来るのです。
                                                (20201227日主日礼拝説教より)

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地の果てまでも 

詩編192-5a節、使徒言行録13-11

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録18)


主と共なる食事

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは地の果てに至るまで、わたしの証人となる」との言葉を残して、主イエスは、天に上げられて行かれました。主イエスは、人間の世界から、天つまり神さまの世界へと移され、そのために地上の視界から消えて、その姿が見えなくなったのです。

  しかし、主イエスが天に昇られたからといって、弟子たちが孤独にされたわけではありません。  天から離れる直前に主イエスは弟子たちに、「エルサレムから離れるな」と、おっしゃいました。それは、エルサレムでペンテコステの御業をなすからです。これまで一人一人に聖霊を注いでこられましたが、あらためて聖霊を注いで一つの体に結びあわせて、キリストの身体に接がれた手や足として、目や耳としてキリストを信じる弟子たちに奉仕させるためです。キリストとの生きた交わりの中にあずからせるという約束を、ペンテコステに成し遂げるために、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」とおっしゃったのです。キリストのからだに主イエスは弟子たちを呼び集めるのです。それも食事の時にお命じなるのです。
 主イエスと食事をすることは、普通の食事とは違います。食事をするという言葉は、聖書が書かれたもとの言葉では「一緒にいる」という意味があるのです。だから私たちの聖書では主イエスと食事をすることは主イエスと一緒にいることだから、主イエスと食事を共にしていると訳しているのです。つまり、私たちが聖餐式で主イエス・キリストと食事をすることは、主イエスと豊かな交わりが与えられることです。それは、主イエスの命令が、つまり神さまの御心が明らかにされることであるということです。


聖霊によって

  そして、主が共にいるということを保証するのが聖霊です。主イエスが天に昇られたことによって、聖霊が私たちに与えられるのです。主イエスが天に昇られたのは、聖霊を受け取り、私たちに与えるためだったと言ってもいいでしょう。したがって、私たちは聖霊によって、主イエスといつも共にいることができるのです。
 弟子たちも、心細い思いを抱きながら、「地の果てまで」復活の証人となることができたのは、主イエスが聖霊によって共にいて下さることを知ったからです。主が共にいて下さること、私たちにとってこれほど確かな力づけはありません。そして、どんな者でもキリストの証人となれるのです。それは、長く信仰生活を送った者であろうと、洗礼を受けて間もない者であっても、キリストの証人です。伝道者・牧師であろうとも、信徒であろうとも、キリストの証人としては少しも違いはないのです。そして、たとえ積極的に意欲的にキリストを宣べ伝えることができる者であっても、たとえ隣り人に口で伝道する知識や勇気がなかったとしてもキリストの証人です。これは、確かなことです。なぜなら今ここにいる私たちにも、もう既にキリストは証しされているのですから。私たちは、「まだ私は、主イエスの証人になどとうていなれません」と言う必要はありません。

地の果てまで

  主イエスは、弟子たちに、彼らが今いる場所エルサレム、同胞の住む近所であるユダヤ、異邦人の隣人であるサマリア、そして文字通りの「地の果て」までと言われたからです。  つまり、誰かに福音が届いたときに、福音は「地の果て」に届いたのです。福音を必要としている人こそまさに「地の果て」なのです。
 「地の果て」に福音を届ける。73年前に平和町で伝道をはじめた青年たちもこの主の伝道命令を聞いたのです。子どもたちの心に主イエスの福音という土台を据える若者たちの熱意から、この地域における伝道が始まりました。土曜学校から平和町伝道所が生まれ、平和町教会となります。1955 年には金沢教会の旧会堂を現在地に移築して生まれた金沢教会・十一屋伝道所と平和町教会が合併して若草教会が誕生するのです。
  主イエスは、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とおっしゃいました。あなたの今いる場所はもちろん、距離的・文化的に近所から地の果てに至るまで、いたる所に私たちは遣わされています。そこで、主イエスを指さす証人とされているのです。(2020621日伝道開始73周年主日礼拝説教より)

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